「部活動の指導としての体罰」と「抑止力としての体罰」は切り分けて考えよう

以前、大阪市立桜宮高校のバスケ部にて顧問による体罰が原因でキャプテンだった生徒が自殺してしまった事件が大きく注目されたことがあった。


その際、テレビ、新聞、ネット上などの至るところで体罰の是非について熱い議論がなされていたが、それを見て僕はいつも違和感を感じていた。というのも、「ときには体罰は必要である。」とする体罰容認派と「体罰は断固反対。」とする体罰反対派の間に「体罰」の定義にズレがあるように思えたからだ。

大まかに言えば体罰には、

  • 部活動における指導の一環としての体罰
  • 悪いことをしたことに対する懲罰としての体罰

の2種類あると思う。

しかし、先に挙げた議論においてはこれらが混同された状態だった。体罰容認派は後者の定義を用いて「(抑止力として)ときには体罰は必要である。」と主張し、体罰反対派は前者の定義を用いて「(部活動の指導で殴る蹴るを行う必要性が皆無なので)体罰は断固反対。」と主張していたためお互いの意見がかみ合わず、いつも話は平行線を辿っていた。

大前提となる「体罰」が定義を整理されていないのだから当然の話である。今後は議論の前に「体罰」が上記の例で言うところの前者なのか後者なのかを明確にした上で建設的な意見交換をして欲しいと思う。

まあ、テレビとかだと容認派と反対派がお互いに熱くなって怒鳴り合うくらいの方が絵的に良い、としか考えていなさそうなので無理かもしれないが・・・



ちなみに、僕個人の意見としては、前者の「部活動における指導の一環としての体罰」を行うことについては全く理解ができない。

個人の能力には限界があるのだから、やれと言われて一生懸命練習したとしても無理なものは無理だ。能力的にできないことに対して体罰が必要なのだとしたらこれほど酷い話はない。よく「本当にやる気があればできる。」とか「お前ができないのはやる気がないからだ。」というように相手のやる気を引き出すためという理由で体罰が行われるようだけど体罰でやる気が引き出せるとは思えないし、そもそもやる気のなさも含めて個人の能力なのでいくら身体能力が高かろうがポテンシャルが高かろうが、やはり無理なものは無理である。

もし、罵詈雑言を浴びせながら殴る蹴るをすれば生徒が良い結果を出すことができる、と本気で思い込んでいる監督やコーチがいるのならば、まともな指導力を持たず体罰しかできない監督やコーチ自身が生徒に殴る蹴るをしてもらってその指導力を上げてもらうべきではないだろうか(そうすれば全国制覇はすぐそこだ!!)。それが嫌だと言うならば生徒に対して体罰は行うべきではない。

というか、生徒が良い成績を出せないことは別に悪いことではないのだから「罰」という言葉を含む体罰という表現は適切ではない。部活動の指導の一環として殴る蹴るが行われているのであれば、それは「罰」ではないのだからただの暴力である。



一方で、後者の「悪いことをしたことに対する懲罰としての体罰」はときには止むを得ないのではないかなと思う。

子供が悪いことをしたら即殴れ、と言うつもりは全くないが、何度口で言っても聞かず本人や周囲の人間に大きな怪我をさせる可能性があるような場合は、大事に至る前に抑止力としての体罰は必要ではないだろうか。もちろん、その際の体罰は最終手段であるし、体罰を行った後も「なぜ体罰が行なわれたのか?」を本人に十分説明してその意味を理解させなければただの暴力になってしまう点は注意しなければならない。



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