人命よりも部活や仕事が優先される日本社会

先日から何度か記事にしている大阪市立桜宮高校でバスケットボール部の主将が顧問からの体罰が原因で自殺した事件について今日も触れたい。

自殺の後からバスケ部の活動が無期限停止になっているようだけど、一部の部員からは「早く部活を再開したい。」という声が挙がっているらしい。ニュースでこれを知ったとき、正直言って僕はドン引きしてしまった。

同じ部活にいて毎日顔を合わせていた仲間が亡くなっており、しかも自殺の原因となった顧問の体罰問題や学校の体制が何一つ解決されていないのに、なぜ部活を再開したいという発想が出てくるのか僕には全く理解できなかったからだ。「あいつが死んだせいで部活ができなくなってマジで迷惑。」とでも思っているのだろうか?

「部活ができない生徒が可哀想だから。」と言って部活を再開するのは簡単なことだけど、そうやってなあなあで済ませてしまうと顧問の指導方法も学校側の体制も何一つ解決されない。そうすると、顧問は一時的に大人しくなるかもしれないが、いずれまた暴力を再開し被害を受ける生徒が出てきてしまうだろう。将来の被害者を出さないためにも、亡くなった生徒の死を無駄にしないためにも腐敗しきった部活や学校の伝統をぶっ壊して健全な仕組みを再構築するまで部活を停止するというのは間違った方法ではないと僕は思う。

ところで、人が亡くなっているのに「部活を再開したい。」という意見が出るのと非常に似た状況が現代の日本では非常に頻繁に目にすることができる。それは、電車で人身事故が発生したときだ。

電車で人身事故(ややソフトな表現になっているが要するに飛び込み自殺だ)が発生して電車の運行が休止したり遅れが生じたりすると、駅のホームでは「余計なことをしやがって。」と怒りを露わにする人が少なからず存在する。稀に駅員に食って掛かる人まで現れる始末だ。特に仕事で移動中のサラリーマンが多い。

僕が以前首都圏で働いていたときにもこういった場面に遭遇したことがあるけれど、自分とは全く関係のない他人であっても人が亡くなっている状況でなぜ仕事の方が優先されなければならないのか、常に違和感があった。もちろん、電車の運行休止や遅延が発生すると仕事のスケジュールに遅れが出てしまうのは当然あり得る話だと思うけど、怒っている本人やその人に関係する人は「人身事故は仕事に遅れが生じてもやむを得ない事情」とすることができなかっのだろうか?まあ、多分それができないから人身事故に怒りを覚えてしまうのだろう。人の命よりも仕事が優先してしまうなんて正に社畜の鏡だと思う。

おそらく、人身事故が起きたときに怒るような社畜と同じ部活の仲間が亡くなったときに早く部活を再開したいと考えるような人は同じ人種なんだろうなと思う。いや、むしろ、部活の仲間が亡くなったときに早く部活を再開したいと思うような人が働き始めると、人身事故に対して怒るような社畜になってしまうと考えるのが自然だろうか。

こうしてみると、学校の部活動の時点で将来社畜になるためのエリート教育が施されていることもあるということなのだろう。学校の部活動で人命よりも部活や仕事を優先して当然という指導が行われているのであればとても恐ろしいことだと思う。



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